シンガーソングライター 「ぽていと」が語る、“音楽活動と旅”

音楽で食べていきたい、芸術家になりたい。そういったアーティスティックな活動に対して、誰もが一度は憧れを抱いたことがあるでしょう。また、さすらいの旅をして様々な人との出会いと別れを繰り返す生き方に憧憬を馳せたことがある人も多いと思います。しかし、それらは一般的な「常識」とは離れたいわゆる「特別」な生き方であり、多くの人がそんな思いに蓋をして「常識」に沿って生きていくものです。しかし、ここにその二つを同時に行っている一人のアーティストがいます。誰もが実際には挑戦できないないことを成し遂げているアーティストはどのような思いで活動しているのでしょうか?

日本中を歌い回る、旅するシンガーソングライターぽていとさんにインタビューしました。実際に現地に足を運んでいるからこそ言える、アーティスト活動、そして人と人とのつながりについての強い思いを語ってもらいます。

プロフィール

石見亮太さん。シンガーソングライター / ソロユニット「ぽていと」として活動中。

47都道府県を自分の足で2周し、現在は東京でイベントを主催しながら3周目の旅の準備をしている。

地域交流が生んだ今の自分

――まず、ぽていとさんの活動の経緯を教えてください。

石見)吉祥寺にある井の頭公園沿いの、ガソリンスタンドに併設されていた「風の駅」というコミュニティカフェで、一年半くらいミュージシャン兼スタッフとして働いていました。現地の人やコミュニティの人と定期的にイベント企画とかをしていたんです。それで色々な人とつながりを得ましたね。

記者)今そのお店はないんでしょうか?

石見)もう、ないですね。そのお店がなくなったことを理由に、旅を始めたって感じですかね。ジブリのおかげでカフェには世界中からお客さんが集まって、立ち寄ってくれたので、色々な人とカフェにいるだけでSNSでつながることができていたんです。ですが、47都道府県の旅では自分の足で現地に行きました。1周目は赤字覚悟であいさつ回りをしつつ「次、ツアーで回るんでライブ聞きに来てください」って伝えて。それで2周目からはがっつりライブをするって感じで。

記者)なるほど、旅をしている現在はそういった経験があってこそなんですね。そのお店の話を聞かせてもらっていいですか。

石見)「風の駅」ですか。NPOでやっていたカフェでした。俺、その時一瞬だけ事務所に入って、その事務所のイベントでそのお店で歌うことになりました。で、そのカフェはガソリンスタンドの跡地にあって半分が三鷹市のシティバスのバス停なんですよ。で、残り半分がカフェになっていてそこだけ使えたんです。まあ、テラスと言ってもガソリンスタンドの事務所だったところに厨房があって、それとほんとわずかなテーブル席があっただけだけど。「ここで定期的にテラスライブをやらせてもらえないですか?」って伝えた。そうしたら、「なら人手が足りないからここでちょっと働いてくれない?NPOの自由なカフェだから、マニュアルとかもないし、ぽていとの好きなようにやっていいよ」って言われて、やることに決めましたね。最初、カフェの席はほぼテラス席だったので、外に向けてBGMをかけることにしました。でも、車通りも激しいせいで店内にはかかっているけど、外にはあんまり聞こえない。それで逆に怒られるまでアコースティックギターレンジのインストのジブリの曲のBGM流したりしていました。そうこうしていたら、通行人が「あーここカフェなんですね」と話しかけてくれたりするようになりました。ほんと、一目でカフェなんてわかんないんですよね。ガソリンスタンドに見える(笑)それから定期的に知り合いのミュージシャンとか呼んで、週末はほぼライブイベントをしていました。自分が出なくても、企画とか音響とかをしたり。そしたらどんどん地元の人も来てくれるようになって。例えば、三鷹の方で紙芝居をやっているせんべいさんっていう人とも知り合いになって登壇してもらったり。あとは、三鷹の方でお花屋さんやっている人とかが来てくれて、お店の外観をフラワーアレンジメントしてくれて、それでイベントをやったりもしたね。

記者)だんだんに地域を巻き込んでいった感じなんですね。

石見)なんか自然にそういう流れになりました。他にも、同じ通りに若者の支援事業をやっていたNPOがあったんです。不登校になったり、社会に出られなくなった人たちをもう一度社会に復帰できるように、「学校には行けないけどこっちにはいける」みたいなスペースをつくる活動をしていました。そこに通っている子たちも巻き込んで、一回お店で曲を作りました。僕の同期でデザイナーがいたのでタッグを組んで曲を作り、その若者たちにはジャケットを描いてもらったり。そういうことをしていってどんどん地域の人たちも見守るカフェになったんですよ。でも、契約上、閉店する日は決まっていたから、俺が働いたのは一年半くらいかな。そのときの経験は、俺の中ですごく生きていると思う。

繋がる意思決定、学生時代からいままで

――アーティストやミュージシャンの活動を小さい頃から夢見ていたりはしていましたか?

石見)いや、そんなことはなかったですよ。高校の頃までは、SMAPCHEMISTRYしか聴いたことがないような人間だった() それなのに、高校2年の時の学園祭でライブがあって、友人にそそのかされてギター持ってないのにギターボーカルとして登録されたの()それでTSUTAYAJ-POPランキングのトップ50しか聞いてなかった人間が、いきなりニルヴァーナとかレッドホットチリペッパーズとか、そういう洋楽をやらされた。でも、それが音楽が好きになるきっかけだった。高校卒業して、東京経済大学に入学したんだけど、大学でも普通に遊びとして音楽活動を続けようと思っていました。自分で曲とか作れないから、コピーバンドサークルにでも入ろうくらいのノリだったね。高校の頃は、音楽は好きだけどそれを専門的に学ぼうとは考えられなくて、好きなこともやりたいこともなかった。それにも関わらず、やりたいことを入る学部に縛られることに抵抗もあった。そんなとき、東京経済大学のコミュニケーション学部っていう学部を偶然見つけた。「人間関係」とか「人間環境」とか、漠然とした単語が並んでいたけど、自分には明確なものがなかったので、逆にそういうあやふやなところを混ぜているのがよかったんです。

記者)当時流行りでしたよねそういう学部。

石見)そうそう。その中でも、東京経済大学コミュニケーション学部の中に「身体表現」っていう授業があって、黒人のミュージシャンがボイストレーニングをしてくれる授業で、これはいいなとそんな理由だけで大学は選びました。普通の4年制大学なんだけど、ちょっと専門的なことにも触れるのかなって期待感もあった。で、実際2年生からその授業を取ってみた。そしたらその授業、最終日にライブをするんです。そこで演奏してくれる人たちがプロのミュージシャンだった。で、そこのキーボードやっている人が、のちに俺の入るコーラスグループのリーダーの人だったんだよね。それで、上手くはないんだけど楽しそうにやっている俺の雰囲気を評価してくれて一緒にやっていくことになった。そしたら、ずっと遊びでやってきたのにいきなり仙台の音楽フェスティバルとか、色んな場所で歌うようになって。それこそディズニーランドでもやったり、新宿のホテルでクリスマスと大晦日のカウントダウンを4年ぐらい連続でやったり、もういきなり趣味じゃないものになったんだよね。俺もついていくので必死だったんだけど、まさかそんなことになるとは夢にも思わなかった。

記者)確かに高校の話を聞いている限りだけだと、どこにでもありそうな話ではありますよね。友達に誘われたりとか。

石見)でしょ。だから自分でコーラスグループに参加したのは結構大きかったと思う。で、そんな中で「皆ギター弾きながら歌って曲作っているから俺もちょっと作ってみるか」って思い立って、大学3年の時に「ぽていと」の名前でバンド作ったんです。

記者)今はお一人で活動されていますが、最初はバンドだったんですか?

石見)そう。スリーピースのね。吉祥寺のスターパインズカフェとは、大学サークル自体もつながりはあったんだけど、俺が直接つながったのは21歳の時にジョージロックっていうオーデイションでエキシビジョンにいった時だね。スターパインズとの付き合いは7年くらい続いてますね。他のメンバーは遊びでやっていて、俺はどんどん本気でやることも考えなきゃって思っていきました。大学4年生になったときには、バンドを解散してでもって。まあ、ぽていとって名前はかなり覚えていてもらっていたから、親戚中で猛反対されたんだけど、フリーターでやるつもり満々だった。

記者)身内には反対されませんでしたか?

石見)当然されたね() ただ、「うるせー、それでも俺はやってくんだ」と言っていたんだけど。そんな矢先の大学4年の4月、母ちゃんの誕生日に、自分が運転してた車で玉突き事故起こしちゃって。

記者)えっ!?大丈夫だったんですか?

石見)大丈夫だったけど、母ちゃんには最悪の誕生日プレゼントだったよね。それが4月で、お金もかかり俺はお金ないから必然的に親が立て替えてくれたんだけど、そんな中でフリーターなんてさすがに「筋が通らない」って思って「社会人になってお金返します」って言った。スーツすら持ってなかったのにね。で、大学4年の5月から就活始めたんだけど、音楽も続けられる職場って条件で考えていた。そしたら一応決まって、それで一年間働いて、お金もちゃんと稼いでいた。でも、やっぱり音楽のための時間は取れなくて、しっかり音楽やりたいんだなっていうのを感じちゃって。それで、結局事務所入って仕事を辞めることにした。

記者)美術大学や音楽大学出でなく、アーティストになるのは挑戦だと思います。大学を出て、実際に就職もしたわけで。企業で社会人としてやっていくことへの未練はあんまりなかったんですか?

石見)とにかく全然なかったね。まあ、自分なりにいろいろ考えていたんだけど、もっと純粋に「音楽をやれる状態を作りたい」っていう思いが中心だったんだと思う。でも、結果的に今言えるのは、一年間だけでも働いていてよかったってこと。旅をしていたりするといろいろな人と会うんだけど、一度でも働いてなかったら働いている人と話が通じ合えない。受け手側も印象がよくない。「働いたことないのにお前が言うなよ」っていう話になっちゃう。だから、事故も不幸中の幸いだったと今では思ったりもする。でも、そうして仕事する中で音楽ができないことへのストレスが大きくなってったのが、仕事を辞めた決め手だった。

記者)なんていうか、めっちゃメンタル強いですね。

石見)よく、現実的に考えて「お金がないから」だとか、「コネクションがないから」だとかの理由で挑戦しない人が一杯いるけど、それを言うくらいなら「どうやったらできるだろう」っていうことを俺は考えたいんだよね。口だけの人間にはなりたくないっていう思いが強かったから、まずやることにした。その流れで、旅もすることになった。24歳くらいからやり始めるのと、345歳でやり始めるのとでは受け手の印象が全然違って応援してくれると思ったので、早めにやったんです。旅なんてどうやってやったらいいのかなんて全然わかんないので遠回りもしたし、今見たら効率悪いなあって思うことばっかりしてきたけど、経験値が付きました。地道に自分の実力も少しずつ上げることができているし、それによって今こうやって話せる自分を作れている気はするね。

親も仕事辞めた時は「バカね」みたいな感じだった。当時今よりも全然へたくそだったし、超反対されました。でも、47都道府県2周してから大分変わって、実力が付いたと自分でも感覚として覚えました。今までそんなこと感じたことなかったのに、「ああ、いいライブできてんな」ってお客さんのリアクションとかから感じて。それが家族にも伝わったのかなと思う。今は当時と比べたら、びっくりするくらい応援してくれていると思いますね。旅で出会ったミュージシャンを呼ぶイベントのときとかよく来てくれますよ。

全国ツアーって、なんだろう

――満を持して、旅の話を聞いていきたいと思います。ツアーではどうして47都道府県全てを回ろうなんてことを思ったんですか?

石見)まずなんとなく、「日本を活動場所にしよう」って思って、じゃあツアーをやろうかなって思ったんだけど、その時「全国ツアーってなんだろ」って考えてたんだよね。インディーズのアーティストがツアーにいざ行ってみると、ライブハウスに全然お客さんがいません。それで、そこの人たちとも大してコミュニケーションを取らずに次の場所に行ってライブします。そしてツアー終了という流れの発展性のなさが全く意味わからなかった。売れてないし有名でもないんだからお客さんが集まるわけがない。「どうやったら一人でも多く来てもらえるのか」っていうところに疑問を置かなきゃいけないのに、ただ現地に行くことしか考えてない人たちがあまりにも多すぎると思ったんだよね。思い出を自分だけ持って帰っても「そんなやついたな」で終わってしまう。もっとツアーって、「どうやったら現地の人とつながっていけるんだろう?」って考えることの方が大事だと思うんだよね。「ライブハウスがない街だったら現地の人と企画して弾き語りだったら居酒屋でライブできるかも」とか、それこそアーティストじゃない、ただ音楽が好きな社会人の人たちと演奏したりもできるし。だから、1周目のときは「何月何日にそっちに行くので会ってくれませんか?」って連絡したり。

各地で先輩ミュージシャンに言われたのは、「歌いに行くだけで終わりにしたら、人の家に土足で入っているのと一緒だよ」ってこと。

記者)その考えは深いですね最初はミュージシャンの活動としてというより個人として会いに行くイメージでしょうか?

石見)それに近いね。それで酒飲んで意気投合して、相手はライブしなよって言ってくれて、結果的に結構歌わせてもらったりね。

記者)基本的に日本を舞台にしようと思ったときに、日本全国の「現地」に入っていくことを考えて、回ったと。

石見)そうそう。人とのつながりにすごく比重を置いていた。そうするといろんな人から「ぽていとくん、何々県だったら僕の知り合いがいるんだけど紹介しようか?」って話をもらったりして。そして人との関わりの中ですごく勉強させてもらったね。俺は年に1、2回しか来ないから、その旅先で出会った人はイベントごとのように向き合ってくれる。そうして、ライブにお客さんも入ってくれて、お金も入ってくるから生活費も賄えるようになった。一年に2回ライブできる場所が20か所くらいあったのでお金の計算をしてライフワークとして音楽ができるようになっていった。

記者)「日本を活動場所にしよう」ということで旅が始まったとのことですが、今、日本をもう1周回ろうとしている中で、こだわりはありますか?

石見)うん。とりあえず、俺あまり東京が好きじゃないんだよ。東京生まれ東京育ちの人、なんか殺伐としているし。ライブをしていても、その場所に対してなんか関係性が薄い気がする。旅をして、現地のミュージシャンとつがってみて気づいたのが、地方は東京と真逆なんだってこと。例えば、田舎だったら歌える場所なんて限られている。すると狭い部分で関わり合うことになるから、お客さんと店員さんも仲良いいんだよね。ライブ終わると店員さんやミュージシャンはお客さんと飲んだりする。でも、東京でライブすると、自分の演奏が終わったらすぐ帰っちゃう人が多い。

記者)お客さんもイベントの一員というイメージですか?

石見)そうだね。そうなんだろうなっていうイメージは元々あったけど、実際この旅を始めたらやっぱりそう実感しました。東京だけでやっていたら、絶対に何も変わらなかった。大して有名じゃない人間のライブに、他にもライブとか色々なイベントがある中で平日の夜に3000円以上かけて仕事終わりに行くかってなったらとっても難しい話だと思った。東京だけでずっとやっていたら、今みたいにうまくいってはなかったと思う。でももちろん、東京で戦わないとだめだなって思いもあった。だから、旅だけじゃなくて、東京でも定期的にライブをしてきたことは俺の中ですごく意味のあることです。

記者)東京が嫌いで、47都道府県回ったうえでも、やはり東京がホームだという思いはあるんですか?

石見)自分の育った場所だし、東京が一番な面はあるんだろうって思う。自分がやっていることに価値を見出すためには、東京でも形にし続けなきゃいけないっていう思いが強いから、今でも、東京でもちゃんとやろうと思っている。旅だけで行くのも逃げな気がしちゃうんだよね。自分の地元が地方だったらいいんだけど、東京だからさ。東京でやることが自分のためになると思うし、東京ででかいことをできたとき、応援してくれている人への恩返しにもなるかなと思う。負けるのがやっぱ一番悔しいし、そこからは逃げたくないなって思う。

記者)旅の1週目と2周目で何か変わった点はありましたか?

石見)全然変わったよ。1周目なんて初めましてだしね。1周目は「え、こいつ本当に一周するの?」とか「こいつそんなことやってんの?」みたいな感じだったけど、2周目は「あ、本当に来た、お帰り」みたいに応対が変わったんだよね。

記者)2周目も来てもらったら、確かに嬉しいですよね。

石見)そうそう。それに、1周だけするなんて失礼な気がして、嫌だった。自己満足でしかなくなっちゃう。ただ2周目は常にお金ないから、ビジネルホテルもネットカフェも使わないようにした。1週目で出会った人の家とか、友達の実家とか、ライブで話しかけてくれたお客さんの家とかに泊まらせてもらった。移動は基本夜行バスや夜行列車で。1周目はヒッチハイクもやったけど、2周目はライブの詳細とか決まっていたから、それに遅れられなかったのでやらなかったな。当時は恐る恐るだったけど免疫力が付いた気がする。今はもう「あんなことやったなあ」って感じだけど。

記者)ヒッチハイクみたいな旅ってどこかで憧れるとこはありますよね。それを全部やっていて、しかもそれが音楽に繋がっているのはすごいですね。

石見)やっていることが全部リンクできていることはいいことだね。音楽に限らず、自分が人と話ができるっていうのは、そういうところからきてるのかもしれない。音楽じゃないところでアンテナを張れているから、音楽に携わってない人ともお話ができるってことなのかな。

『一方通行』にならない大切さ

――旅を通して楽曲制作の面で変わったところはありますか?

石見)もちろんありますよ。旅をしたらどんどん曲が自分に直結するようになって、そういう歌を歌いたいとも思った。だから、2周目をしているときにできたCDとか今度出るCDとかは、自分らしい、自分に直結できている曲になったかなあと思う。カバーしている曲でも、旅をしていく中で良さがわかったものも多い。例えば加藤登紀子の「時には昔の話を」で「道端で眠ったこともあったね」なんて歌詞があるけど、自分も沖縄でやったなあ、なんて思う。おつまみと一緒で、そういう経験をしたことで、当時は「不味い」とか思っていたものが「めっちゃうまい」ってなった。大人になって渋みのよさが分かった、みたいな。そしてそういう経験はこれからもどんどん出てくるんだと思うと、楽しみだよね。やっぱり歌詞の内容には経験談が使われるもので、人間としてどこまで成長できるかっていうことが大事だと思う。「頑張ろうね」って言っていたのにさ、「お前楽なことしかしてないじゃん」ってなったら意味ないじゃん。「さあ、旅に出ようぜ」って言っているやつが東京でしかライブしたことなかったら全然意味がわからない。だから、実際に旅をしたから、イメージできるんだなって状態を作りたいね。

記者)そうすると歌の主人公はやはり自分なんですね。

石見)必ずしもそういうわけではないけどね。ミスチルもそうだけど、俺が好きな歌って歌詞がいろんな角度から見れるんだよね。自分のことを書いているはずなんだけど、ちゃんとそれを聴いた相手も自分自身と結び付けられる、ツアーをやるスタンスと同じで、一方通行にならないものだと思う。

記者)なるほど「一方通行」という意味では、最近のアーティストはSNSやネットの生放送を積極的に用いて活動している訳ですが、ああいった活動をどう思いますか?

記者)今の時代、それも一つの手段だと思うし、俺もやらなきゃいけないなって思うよ。でもやっぱり、やったところでその人に価値がなかったら見てもらえないと思うし、そういうことをやる以前にやらなきゃいけないこともあるのかなとは思う。SNSとか生放送とか、誰でもできちゃうじゃないですか。それで、コンセプトなくちょっとだけやって、飽きてやめて終わりとかっていう人も結構多いのかなあとも思う。一方通行にならないように、ちゃんと意味付けして定期的にやるっていうのが大事なのかなとは思うよね。エゴになりすぎちゃわないようにってことが大事で、エゴでやっていたら、それこそ相手の家に土足で踏み込むようなものです。俺も旅の1周目なんてまさにそんな感じだったんだ。相手との距離感をわからずに、苦い経験もあったし。そしてそれのお陰で今やっていけている面はあるよね。

これからの展望

――これから10年後、20年後を見据えたビジョンはありますか?

石見)やっぱり、自分でイベントをやりたい。ホールなり公園を使った規模で出来るような。まず売れないとなあ() 大きなライブハウスでやりたいっていうのもあるし、海外にも行きたいという思いもある。30歳までにはアイルランドに行って、アイリッシュミュージックを自分の目で見て、身に着けたいって思います。

記者)そのビジョンに向けて取り組んでいきたいことはありますか?

石見)意識的な部分で一個一個変えていかなきゃいけないっていうのはある。日々走って、ジム行って、ボイストレーニングをするのをルーティンにするみたいな、そういう小さなことの積み重ねを、すごい人ほど当たり前にやっていると思う。イチローが毎朝カレーを食べているみたいに、そういうルーティンを続けていきたい。あとは、企画書を作って、それを基にしっかり行動していきたいと思う。あと、すごくやりたいことがあって、それは全国の大きなスターバックスでライブしたいってこと。なんでかというと、スタバって電源とWiFiがあるから旅人の正義の味方なんです。これには本当に助かっていて、これだけ全国回っているんだから、それぞれの街のスタバから何か見えないかなあという思いもあってライブしたい。東京のスタバでは実際に歌ったしね。

記者)今の活動以外で、他に何かやりたいことはありますか?

石見)俺がこれから始めたいのがブログ。今までつながったお店の紹介を書いてもらおうと思っています。食べログみたいなものだけど「食べログにも書いてないぜ」みたいなところもあるだろうから。そういう所を一個一個うまく記事にできればまた、別の角度から見てもらえるかなって思う。そこは今年中に何が何でも考えたいと思っています。それも旅をしてきたからこそできることなんだけどね。

――ありがとうございました!今後のご活躍も楽しみにしております!

ぽていとオフィシャルブログ https://poteito.amebaownd.com/

Youtube https://www.youtube.com/channel/UC1DyO0nDk34lNiotWZxtZOw