バンドゥリスト カテリーナに聞く“音楽と半生”

今日、民族楽器や民謡というものに対して私たちは関心がそこまで高くないように感じます。日本には琴や琵琶、三味線など固有の楽器が数多く存在しますが、実際に触れてみた、生の演奏を聞きに行く、そういった体験の場は非常に少ないものとなっています。これはどこの国でも同じで時代の潮流と離れた楽器の存在は少しずつ忘れられていくものです。そんな現状を良しとせず、古い楽器、音楽を大切にし、世界に広げていきたいと、ウクライナ固有の楽器バンドゥーラを演奏する一人のミュージシャンがいます。

バンドゥリスト カテーリナさんにインタビューしました。

自己紹介と、バンドゥーラという楽器について

――よろしくお願いします。最初に自己紹介からお願いします。

カテリーナです。10年前にウクライナから来ました。現在、日本全国でウクライナの民族楽器バンドゥーラを演奏する活動をしています。

――普段はどういった場所で活動されているんですか?

文字通り、日本全国を回っています。その中でもよく行っているのは、福島県のいわき、北海道の函館、それと奄美大島ですね。

――奄美大島が多いんですね?

そうですね。以前、往復2週間かけて日本とロシアのカムチャッカを結ぶの船の中で演奏していたんですが、その船旅の中で奄美出身の方と知り合って、それ以来のご縁です。「いつか奄美に遊びに行きたいなあ」とその時はぼんやり思っていたんですが、結局そのひと月に楽器を持って演奏しに行くことになりました。それから定期的に訪問し、演奏しています。

――バンドゥーラという楽器について詳しく教えていただけますか?

重さは約8キログラム。弦楽器です。弦の数は63本と多く、作りとしてはピアノの白黒の鍵盤に似ています。一言でいうと、「ピアノに似ている弦楽器」という感じですね。演奏するときはまず椅子に座って膝の上楽器をに乗せ、左手でベースを、右手でメロディを弾きます。

「ピアノと似ている」という言葉通り、ピアノを演奏していた経験のある方は、意外と短い時間でマスターできたりしますね。右手の使い方はほぼピアノと同じで、左手は1本づつベースを弾く感じです。

――ちなみに、バンドゥーラ以外は教えていないのですか?

バンドゥーラ以外にも歌とピアノ、そしてロシア語とウクライナ語を教えています。

――言語も教えてるんですね。生徒さんはどういった層が多いんですか? 身近にロシア語やウクライナ語を学べる場所はないし、学ぼうとしている人間もいなくて。

年齢だけでも4歳から70歳まで、とても幅広いです。結構色んな方が来ていて、例えば旅行が好きで、ロシアやウクライナに行って現地で簡単な会話をしてみたいという人とか、昔ロシアで仕事をしたことがあって、そこで覚えたロシア語を忘れたくない人とか、あとは変な話だとウクライナ人と結婚したいから、という人もいたりします。

――北欧系の人に憧れてる日本人結構いますもんね(笑) ちなみにその人は無事結婚できたんですか?

ひとりはウクライナに何回か行って探してるんですが、なかなか難しいみたいです。もうひとりは諦めたようです(笑)

――なんか、普通の語学教室とは違った面白さがありますね。

日本に来るまでの経緯

――次に、日本に来ることになるまでの経緯を教えていただけますか?

私はチェルノブイリ原発から3.5キロしか離れていない村の生まれです。生まれてから1か月後に原発事故が起こり、事故発生の3日後にウクライナ首都のキエフに避難させられて、そこの仮設住宅に住むことになりました。

キエフは、東京で言うところの渋谷区とか中野区みたいに大まかな街に分かれていて、その街のひとつが避難してきた人たちに割り当てられました。しかし、当然その街にも元々人は住んでいうわけで、学校では避難してきた人たちと元々生まれ育ってきた人たちが同じ環境に置かれ、そのせいでいじめや差別なんかもありました。例えば、学校でお昼ご飯を食べるとき、いちいち教室に何人避難してきた子供がいるのかを食堂に申告しないといけませんでした。というのは、避難してきた子供たちは「健康のため」ということで、特別に通常より多く食事が配られる制度があったからです。でも、当然それ以外の子供たちにとっては「なんで彼らだけ」ってなるわけですね。配られた食事を取られて投げられたり、捨てられたり、色々ないじめを目の当たりにしました。

そんなある時、ずっとそういう暗い環境にいるとよくないと言うことで、避難してきた子供たちだけで音楽団を結成したらどうかという話が持ち上がり、実現しました。同じ悩みを持っている子供たちで一緒に歌ったり踊ったりすることで、暗い日々から離れ、楽しく過ごすことができたと感じています。

その活動を続けている中で、ある時ドイツの方から「ドイツで演奏しないか」と声をかけていただいて、7歳のときに初めて海外でコンサートをしました。それを契機に、色んな国でコンサートをするようになり、その中で日本も何度か訪れました。最初に訪れたのは1996年、私が10歳だったときですね。

――そのときは音楽団として来日されたんですよね? 

そうですね。音楽団のメンバーとして来日しました。ちなみに当時は、交通費や食費は呼んでくださった側から出してもらってましたが、それ以上はお金を一切もらっていませんでした。コンサートが終わった後に募金箱を持ってお金を集めて、そのお金を治療が必要だったり薬が足りてなかったりする人たちへ渡すことが、コンサートの一番の目的でした。

――チャリティーコンサートみたいな感じだったんですね。ちなみに、楽器はそのときからバンドゥーラを演奏されていたんですか?

10歳に日本に来た当時は、歌と踊りだけでした。でも、12歳のときに再び日本を訪れた際はバンドゥーラを演奏していました。

――日本に来た時はどういった都市を訪れたんですか? また、10歳のときと12歳のとき以外にも日本に来られたりしたんですか?

東京、名古屋、大阪、京都、広島、主要都市は大体回りました。私は2006年の12月からずっと日本に住んでいますが、それ以前に計7回ほど日本を訪れましたと思います。

音楽漬けだった学生時代

――ティーンエイジャーのときに何度か日本に来られた、というお話をしていただきましたが、そもそも学生時代はどういった学生だったんですか?

ウクライナでは、音楽学校に通いたい場合は普通の学校に通いつつ音楽学校にも通う、ダブルスクールをする必要があります。幼いころから音楽を学びたかった私は、普通の学校に通いつつ音楽学校にも入学し、バンドゥーラと歌とピアノの授業を受けました。卒業した後は、大学や就職も含めて色々選択肢のある中で音楽専門学校に進学することを決め、さらにそこから4年間バンドゥーラを習いました。

その間に日本にも4回ほど公演で行っていたりもするので、学校で勉強しているより海外に行っている時間の方が長かったと思います。

――座学というより実地で鍛錬を積んでいたんですね。

そうですね。当然先生たちから怒られたりもしましたが。「他の学生は真面目に勉強しているのに、あの子だけ海外で小遣い稼ぎをしていてけしからん」と思われていたかもしれません。でも、無事に専門学校も卒業することができて、そのあとすぐに日本に移住しました。

今思うと、学生時代はもう少し真面目に勉強しておけばよかったと思ったりもします。

――ちなみに、親御さんはカテリーナさんが音楽の道に進まれることについてどう思われていたんですか?

「本当にやりたいなら全力でサポートする」というスタンスで応援してくれました。でも、ちょうど去年の12月から今年の3月まで母が日本に来てくれて、一緒に全国を回ってどういう仕事をしているのか、どういう活動をしているのかを見てもらったんですが、「こんなに大変になるってわかってたら音楽は習わせなかった」って言われました(笑)

――でも、応援してくれるっていい親御さんですね。日本だと「子供が音楽の道に進みたい」なんて言うと反対することも結構多かったりもするので。

私の場合は逆に、一度「辞めたい」と漏らした時は机を叩いて怒られたりしました。「どれだけ大変なことがあっても続けなさい」って言われて。つらい時期には何度も「辞めたい」と思うこともあったんですが、それを乗り越えたとき、ようやく楽になることができました。そういう意味では音楽を続けさせてくれた母には感謝しています。

ちなみに、いつも怒ってきたのは母で、父は優しかったので「やりたければやればいいし、やりたくなければやめればいいよ」って放任な感じでした。

今では本当に、これまで音楽を続けさせてくれた両親に感謝しています。あのとき音楽をやめていれば、今の自分はないので。

――練習は大変だったりしたんですか?

そうですね。そもそも楽器が重たいし、弦の数も多いし、慣れるまで16時間から8時間くらい練習をしないと自由に弾けないです。それに、今は爪で弾いていますが、子供の頃は爪ではなくて指で弾かされていたので、指が切れちゃったりもしました。それでも練習しないといけないので大変でした。「普通の子供たちは外で遊んでいるのに、自分はなんでこんなにつらくて痛い思いをしないといけないんだ」って思ったこともありました。

専門学校生のときも、弦の位置を感覚で覚えるために全く何も見えない暗い部屋でひたすら弾いて位置を覚える練習をしていたりして。そういう練習も大変でした。

あとは、学校と両立する上で練習する時間も結構限られているので、学校に通っていたときは朝6時から8時の誰もいない時間や授業の間の時間、授業が終わったあとの時間に必死に練習していました。

――ウクライナ国内でも、バンドゥーラを練習する場はそこまで多くはないんですか?

伝統的な民族楽器であるにも関わらず、私が練習をしていた当時は興味を持ってる人もそれほどいませんでした。この楽器のすばらしさを証明するためには、自分がもっと練習をして、素晴らしい発表をしていかないといけないと思っていたので、練習にも気合いが入りました。

自分の国の文化、民族楽器の話なので、まず自分たちが興味を持たないと世界中の人たちにも興味なんて持ってもらえないという思いはあります。幸いこの23年くらいでウクライナ国内でもバンドゥーラを学びたいという人が増えているようです。民族楽器だけれども、ピアノと同じくらい広い音域を持っているので、たとえばポップスとか、ロックとか、ジャズとか、色々なジャンルの音楽にバンドゥーラの音を取り入れる試みがされていたりして、私もできる限りのその可能性に挑戦したいと考えています。

――それこそ、100祭記念ウィークのぽていとさんとのコラボレーションもそうですよね。伝統的な楽器による演奏でありながら、新しい感じがします。

最近だと日本のお琴とコラボしたりもしています。新しい試みは今後も続けていきたいです。

学生時代は個々の技術を習得している最中だったということもあり、自由に新しいことに挑戦できる感じでもありませんですた。でも逆に今はなんでもできるので、色々なことに挑戦しています。

――でも、伝統的に積み重ねられてきた技術を習得したからこそ、その段階に進めた部分もありそうですね。

そうですね。培われてきた弾き方とか、音楽としての深みとかを身に着けたうえで、初めてそれを活用することができると思います。

最近出した新しいアルバムでは、「日本の童謡」をテーマにした楽曲をバンドゥーラで演奏するという試みをしています。ウクライナの民族楽器がそうであるように、日本の伝統的な文化も興味を持つ人は少なくなってきています。三味線とか琴を弾きたい若い人たちは明確に減っている。そんな時代だからこそ、昔のものを今の時代に受け入れられる形にアレンジして発表することで、さらに多くの人に、特に若い人に聴いてもらえたらいいなあと思っています。

新しいものが多すぎて、古いものに届かなくなっている、そんな時代だからこそ積極的に古いものを掘り起こす活動をしていければ幸いだと考えています。

井の頭公園との縁

――そもそも、どうして日本に移住されようと思ったんですか?

ウクライナ国内には楽器を演奏している人はたくさんいるので、海外で大きな舞台を任せていただいた経験なんかも踏まえて、海外を拠点に音楽活動をしていきたいと思うようになりました。その中で、いつも暖かく迎えてくださっていた日本人に惹かれて、日本を拠点にすることに決めました。

――現在は井の頭公園の近辺に住まわれているということですが、日本に来られてからはずっと三鷹市にお住まいなんですか?

日本に来て最初に住んだのは葛飾区でした。その後墨田区、文京区と移り住んで、最終的に三鷹市にたどりつきました。

最初に葛飾区に住んだきっかけは単純に家賃が安かったからという理由です。その後学校や、当時バイトしていたお寿司屋さんの立地の関係でそこから転々としました。

――お寿司屋さんでバイトをしていたんですか?

学校を生活の中心にしつつも、やっぱりお金が足りなかったりしたので、そういったアルバイトをしたりコンサートを開いたりして、お金を稼いだりしていました。

――学校に通われていたんですね。

そうですね。外国人向けの日本語学校に2年間通っていました。そこを卒業して、結婚して、最終的に三鷹市に引っ越した感じです。

――大変日本語が達者なので失念していました。三鷹市に引っ越されたのはどういう理由からですか?

来日後結婚した夫がずっと三鷹市に住んでいたから、というのと、公園にも近いし、動物園もあるし、駅からも遠くないし、自然もあるし、ということで文句なしで井の頭公園の近くに引っ越してきました。

また、今は子供もいるので、子育てがしやすくて住みやすい街であるということも吉祥寺に住み続けている理由です。

――井の頭公園には今でも毎日行かれているとお聞きしました。

毎日行っていますね。公園を歩きながら今後のコンサートのことを考えたり、自分の世界に入ることができるので、貴重な時間を過ごしています。

――井の頭公園近辺に来られてから大体8年くらいですよね。その中で変わったなあと思った点とかありますか?

うーん、あんまり変わったとは感じないですね。いつも綺麗な公園だなあって思います。まあでも、周辺にお店が増えたなあとは思いますね。公園の中はあまり変わったとは思いませんが、吉祥寺の街とか、ジブリ美術館とか、公園の周辺は変わったかなって感じます。

――吉祥寺の街も変わりましたよね。

前はもう少し静かでしたね。あと、何か買い物しないといけないとき、以前は新宿とか渋谷とかまで出る必要がありましたが、最近は吉祥寺で全部事足ります。

将来またどこか移り住むことになっても、こういう街ってあんまりないなあと思います。都心にも近すぎず遠すぎず、自然もありますし。

――100歳記念ウィークまで井の頭公園でライブをしたことはなかったのですか?

ないですね。今まで「したいなあ」とは思っていたし、友人から「しないの?」って言われたりはしていたんですが、機会がなくて。どこで申し込みすればいいかもわからなかったですし。

でも、そういえば34年くらい前にジブリ美術館の近くで開催されていた国際フェスティバルに参加し、そこで演奏したことはあります。

――そういうイベントってご自身で企画されたりするのですか?

します。いつもイベントに一方的に呼ばれている側だったので、いつか自分でイベント作れたらいいなあとは思っていました。そんな中、2014年にウクライナとロシアの間で戦争が起きて、連日暗いニュースばかりだったので、なんとか明るくできないかと思い悩みました。そこで、自分たちがフェスティバルを開いて、ウクライナの明るい部分、良い民族衣装も持っていたり、楽しい踊りや音楽があったり、料理がおいしかったり、そういうところを発信したいと考え、イベントを企画しようと思い立ちました。

協力してくれた日本人やウクライナ人の尽力で、新横浜のコンサートホールを借りることができ、最終的に約700人の方が来場してくれて、メディアでも結構大きく取り上げられました。

でも、自分の活動をしながらイベントを作っていくのは結構大変ですね。

今後の展望と意気込み

――最後に、今後の展望について聞かせていただけますか?

ウクライナという国のことを日本人にもっと知ってもらいたし、その中でバンドゥーラという楽器についてももう少し知ってもらいたいので、バンドゥーラと触れ合うことができる機会をこれからも作っていきたいし、体験したり、習えたりする場所も作って行きたいです。日本人の本格的なバンドゥーラ奏者はまだひとりもいないので、もっと興味を持ってくれる人を増やしていければなあと思っています。

また、その過程で先ほども言った「昔の音楽を新しい味で聴かせる」活動は意識的に行っていきたいです。それこそ、日本の楽曲をウクライナの楽器でアレンジしてみたいし、その逆もしてみたいと考えています。

それと、日本でバンドゥーラを作ってくれる人を探したいというのもあります。現在はバンドゥーラはウクライナでしか作っていないです。でも、最近はウクライナ国内でも、アメリカやカナダといったそれ以外の国々でも、バンドゥーラの奏者はじわじわ増えています。その人たちのためにも、バンドゥーラ作ってくれる人が日本から生まれたら嬉しいです。

  

――今後はずっと日本にいるおつもりですか?

そうですね。今のところウクライナに帰るつもりはないです。日本でまだまだやりたいこともありますし。ウクライナの文化を伝えることもそうだし、今までやってこなかった新しいことにも挑戦したいと考えています。あと、いちアーティストとしてはより大きな舞台で演奏したいという思いもありますね。

――ありがとうございました! 今後のご活躍も楽しみにしております!